9 無学・文盲一掃の闘い
アナヒタ教育相とのインタビューでは、充実感だけでなく楽しさすら覚えた。当初の質問予定から脱線した話でも、会語ははずんだ。彼女に、「日本のマスコミはあなたが暗殺されたと報じていますよ」と言ったら彼女はそれを一笑に付して、そのかわり、マスコミをも使って4月革命を妨害しているサッチャー英首相を、同じ女性として許せないとばかり、猛烈な勢いで批判し始めた。アフガニスタン民主婦人同盟はつい最近、英議会でサッチャーが行なったアフガニスタン革命に干渉し敵対する発言に抗議して公開書簡を送ったばかりだ、とのことだった。また、革命政府の教育政策を彼女が強調して話している最中、ちょっと言葉がとぎれたので、
「その教育現場を取材できますか?」
とカメラを写す手真似をして聞いてみた。情報文化省に提出した取材申請書は不勉強の段階で書いたので、無学・文盲者用の教育施設訪問をリスト・アップしていなかったのに気付いたからである。彼女は、変なことを聞く奴だというような表情で、
「オブ・コース」
というやすぐさま、彼女の坐ったソファーの右袖に置いてあった電話に腕を伸ばし、受話器をつかみあげた。彼女は、電話にでた相手にダリ語で早口に説明を始めた。ぼくにはさっぱり意味が分からない。それで彼女が電話している光景を黙って眺めていると、突如、彼女はこちらに顔をむけて、
「あなたはいつだったらいけるの?」「どんな種類のコースをみたいの?」
と聞いてきた。ぼくは、手違いをしたら大変と、慌ててスケジュール表を取り出し、
「この日とこの日が空いています」「コースって、どんなコースがあるのですか?」
とノートを指差しながら聞き返すと、老人、婦人、労働者とあるとのこと。ぼくは、
「全部、特に婦人や老人のコース」と答える。彼女は、電話口に出た相手とはダリ語で、当方とは英語で、交互に使いわけながらアッという間に、9月3日と4日の午前中の取材スケジュールを作ってくれた。しかもガイドと車までつけてくれた。ぼくは3日の朝、約束の時刻にホテルの玄関に立っていれば、自動的に目的地に行けることになった。教育省に限らず、他の省庁や団体でも、対応はすばやく、こちらの要望はほとんど聞きいれられた。1日おいて3日の朝、約束の9時半に迎えの車がきた。ホテルからいったん教育省に寄って、シャルナウにある「無学・文盲一掃キャンペーン本部」につれていかれた。ホテルから車で直行すれば、10分たらずの場所にあった。局長室に通された。そこには4、5人の若い男性が壁ぞいに置かれたソファーに坐って何やら打ち合わせをしていた。局長であるバーテン・シャー・ムザファリさんに訪問の目的を告げると、坐って待てと指示された。待っている間に、砂糖のタップリはいった紅茶が運ばれてきた。局長さんは忙しそうに書類に目を通したり、サインしたり、電話をしていた。しかしかれは、その間にもこちらにサービスをしてくれ、そのおかげでぼくは、先にきて坐っていた男たちが無学・文盲一掃運動に従事している先生たちであること、この本部はカブールだけでなくアフガニスタ ン全土26州のセンターであること、アフガニスタンの学校はすべて公立で私立の学校はないこと、などの知識を得た。そうこうしていると、金髪の赤っぽい肌をしたロシア系のアフガン女性が、「どこへ行きたいのか」と聞きにきた。「アナヒタ教育相に予定をつけてもらって来たんだが……」と話すと、奥の部屋に戻って、今度は2人の男性をつれてきた。ぼくを案内してくれるモハマドさんと英語通訳をしてくれる人だった。どちらも中年の男性でモハマドさんは髪は薄いけれども立派な鼻髭をたくわえていた。
早速、見学に出かけた。最初につれていかれたのは、本部と同じシャルナウにある学校だった。目的地に着くとそこは、何か政府の建物のような感じで、石造りの門の前には警備の兵士が立っていた。ぼくは、モハマドさんと通訳のあとに従って車を降りた。2人は、入門する前に、背広の裾をたくしあげて、肩紐で吊るし腰のズボンのバンドに無造作に(ぼくにはそう見えた)差していた拳銃を取りだした。かれらは拳銃を吊紐からはずすと、弾のはいったカセットを取り出し、それを背広のポケットに入れた。つぎに、撃鉄を起こし地面に向けて引き金を引いた。ガキッという軽い金属昔をさせて、弾が入っていないことを確かめた後、かれらはそれを警備の兵士に渡した。もうこのころには、ぼくはこのような光景になれっこになっていた。それでかれらが自分の拳銃をはずしている間、通訳にこの建物は何だ、と聞いてみた。するとそれは、農業省関係の何かの局らしかったが、正確な名称は聞きとれなかった。
かれらに伴われて中に入ると、白い壁に囲まれた敷地の中庭に出た。3方の壁ぞいにはぶどう棚があり、中央は芝生になっていた。そこでは数人の子供たちが遊んでいるのがみえた。ぶどう棚の下はどれもテントのような布で囲われて、直接陽が差し込まないようにしてあった。ぼくらは3つの“ぶどう棚教室”の1番左手の教室を観た。
そこは、細長いぶどう棚の下に机が2列並べられ、前方に黒板がひとつさげられていた。ぼくらが着いたときには、ちょうど国語の授業中で、14、5人の老人が字の勉強をしていた。1人は中年の女性だった。黒い豊かな髪を胸元で切りそろえた若い女性が先生だった。先生が黒板に字を書き、先生の親くらいの歳格好の生徒たちが声をそろえてそれを読んでいた。ぼくには、「ハルク」とか「マルドム」とかの、ともに「人民」を意味するダリ語や、英語からの外来語と思われる「デモクラティーク」という発音が聞きとれた。熱心に勉強している老人たちには悪かったが、ぼくにはとてもほほえましい光景に見えた。
「ちょいと失礼」と1人の老人の教科書を覗いてみた。するとそれはまるで絵本だった。老人が広げていたぺージには、左ぺージ上段に手に手に鎌やハンマーを持ってそれらを頭上に振り上げた数人の農民や労働者が描かれ、右ぺージ上段にビル建設風景が描かれ、中段に民族舞踊を踊る農民や労働者が描かれていた。その他のスペースに文字が印刷してあった。ところがなんと、その文字は1字2センチ4方はありそうな大きさだった。このぺージだけからも、文字を教えつつ政治を教える、という革命政府の配慮がみてとれた。
ここの学校は1日8コースあり、1回の授業は20分前後、文字と算数を教えるのだという。人々はここで、70日(週5日)の第1課程と、同じく70日の第2課程を受けられる1回の授業が20分と短いのが印象的だ。これまた、生活に支障なく教育を受けられるように、との配慮なのだろう。つぎにぼくらは、カブール市の北のはずれにあるワジル・アクバル・カーンにある学校を訪れた。いま、全国各地であちこちに作られている成人学校のひとつである。ワジル・アクバル・カーンはカブールのなかでも比較的新しい高級住宅地である。「綺麗な町ですね」と、成人学校に向かう間、通訳に聞いてみた。彼は、「この町は、ダウド政権時代に上流階級が多く住んでいた町です。町はとても清潔で水道などの設備も整っています。かれらは、この町に住んでいるかぎり、何の不自由も感じなかったでしょう。かれらにとって、生活の改善の必要がどこにあるか、というわけです」等々、この町の特徴について語ってくれた。この町の旧住人には亡命した人間も多く、それらの家は新政府が接収したとのことであった。
そうこうしているうちに成人学校に着いた。ここの学校は広い民家風の2階建てで、どの建物もそうなっているように高さ2メートルくらいの煉瓦の壁で4方を囲まれていた。ここに入構するとき、かれらは拳銃をはずさなかった。ここには警備の兵士もいなかった。つい今しがた見てきた農業省関係の建物のように、官公庁や工場、党関係の施設や大衆団体の事務所、外国人の多いホテルなどの警戒に特に注意が払われているようである。
ワジル・アクバル・カーン成人学校には、数室が5つあり、字や算数のほかに政治教育や授産教育もするという。ぼくらが見学して回ったときには、どの教室も生徒で一杯だった。生徒の中には数人の男性もいたがほとんど女性で、ここの女性は中年から若い人が多く目についた。2階の教室にはミシンが何台も置いてあり、白いスカーフを頭や肩にかけた女性たちが縫い物の勉強をしていた。機械は足踏み式の旧タイプのものだった。この教室の本棚にはスタイル・ブックや洋裁の本が2抱えほども置いてあった。チャドルを脱いだアフガニスタンの女性は随分とおしゃれなので、場違いな感じはまったくしなかった。その他の教室は1クラス20人ほど。机と黒板が置いてあるだけで、どこにでもある教室風景だった。教室や廊下の壁には、“生徒”たちが書いた絵が貼ってあった。
一通り見学を終え、授業風景を撮影し終えたところで、職員室に招かれた。職員室といってもそこは、1番奥に校長先生の机が置いてあり、その前に10人くらい坐れる質素な応接セットが置いてあるだけの部屋だった。ここの校長先生はファヒマ・ケシュワリさんという、30歳前半とおぼしき大柄の女性だった。この学校は最近、成人教育専門の施設として建てられたばかりのもので、ここを卒業すれば高校入試の資格がとれるという。生徒数は108名で先生は5人、とのことだった。見学者名簿に名前を記入して、この学校を辞した。ぼくらが学校をでるとき、ちょうど午前中の授業が終わったらしく、いままで勉強していた婦人たちのうち14、5人が、マイクロバスのスクールバスで下校していくところだった。
9月24日には、カブール州のバグラミ地方にある従業員4500人の綿工場、その隣りにある煉瓦工場の成人学校を見学した。この2つの工場では、作業のあい間をぬって、食堂や工場脇や畑のそばに設けられた教室で、労働者が熱心に学んでいた。『カブール・ニュー・タイムズ』は、全国各地で、専門の、あるいはぼくがみたような工場内や農場内の教室が新設されたというニュースを逐一報道していた。カブール州の水準に追いつくため、全国で「無学・文盲一掃キャンペーン」がやっと軌道にのりはじめてきたのだ。
シャルナウとワジル・アクバル・カーンの成人学校を見学した翌日、「無学・文盲一掃キャンペーン本部」の主催する教育研究集会を取材した。この取材は、ワジル・アクバル・カーンからの帰り、モハマドさんが「明日先生たちのいい集会があるよ。君も取材してみないか?」と勧めてくれて実現したものである。9月4日の朝、9時すこし前にホテルまで迎えの車がきてくれた。「無学・文盲一掃キャンペーン本部」に着くとすぐ、モハマドさんと、昨日とは別のこれまた中年の通訳の2人につれられて会場に向かった。
最初の会場は、市の北部にあるアムニ高校だった。ここの講堂に500〜600人くらいの若い先生たちが―圧倒的に女性が多い―集まって、講演を聞いたり、研究発表をしていた。モハマドさんは、本部の人間らしく、集まった人たちに演壇から冗談をまじえて笑わせながら、事務連絡をしていた。この日はこのような集会を3カ所、そのどこでもモハマドさんが報告するので、彼の車に同乗させてもらって見学することができた。1カ所はカブール北部のアムニ高校、2カ所目は東部の教育省の施設、3カ所目は西部にある教員養成所での集会だった。教員養成所は、カブール大学の近くにあり、ここの集会が一番大規模だった。
集会に参加している先生たちの真剣な表情をカメラに収めながら、かつモハマドさんの仕事の合い間をみて、何点か質問してみた。
「このキャンペーンに参加している先生の数はどれくらいですか?」
「カブール全市で約2000人」
「報告を聞くだけですか?」
「はじめに報告を聞いてから3パートに分かれて討論をやります。政治教育課程、言語教育課程、数学教育課程です」
「この仕事に参加している先生たちの給料はいくらくらいですか?」
「2000アフガニ(約1万円)から4000アフガニ(約2万円)です。経験によって差がつき ます」
「今日の集まりはことし何回目ですか?」
すると今度は、彼は怪訊そうな顔をしたまま黙っている。質問の意味が通じなかったかと思い、通訳にもう1度聞いてみた。
「年に何回こんな集まりがあるのですか?」
ぼくは、日教組が毎年1回行なう教育研究集会を頭の隅に置いていた。
「毎週1回、木曜日にやっていますよ」彼はこともなげに答えた。ぼくはこのときのモハマドさんのさも当り前だと言わんばかりの顔付きを忘れることができない。彼はまた、それぞれがカブールのはずれにある3つの会場間を移動する車中で、必ず薄い髪の乱れを櫛で直し、ついでに鼻髭にまで櫛を入れていた。ダンディーな彼の仕種と、彼がつねに数珠を持っていたことも妙に印象に残っている。
9月8日は「国際文盲一掃デー」とかで、アフガニスタン各地で集会があった。カブールでは、政府首脳や活動家たちによって盛大な集会が行なわれ、各種新聞のトップを飾っていた。ぼくはその日、水道関係の仕事の取材をしていたので集会には参加できなかった。それで10日に、インタビュー原稿を見てもらいにアナヒタ氏を訪れたとき、彼女に「あなた、集会にこなかったわね」と言われてしまった。その日、別の取材をしていたし、そもそも8日にそんな重要な集会があるのを知らなかったと言うと、「誰もあなたに教えなかったの? 気が利かないわねえ」とお互いに苦笑。この日発表された成果として、ことしにはいって51万113人以上の人々が教育を受け、教室も全国で2万2213カ所に増えたという。うち1608教室がカブールで設立されている。
後日、ぼくが逗留していたホテルのロビーに、つづり紐が切れてボロボロになった文盲教育用の教科書が置かれているのを知っていたので、それが誰のものなのか従業員に聞いてみた。ホテルの従業員は家族ぐるみ住み込みの者もいたし、子供の従業員もいたからである。彼、中年のモンゴル系の(自他ともにそれを認めていた)、日常会話程度の英語はペラペラの、ぼくの部屋の担当者であった彼は答えた。
「ああ、それは俺達が使った奴だよ」