7 アナヒタ-ラテブザド教育相との出会い

 9月1日、午前10時10分前に教育省の受付に着いた。教育省は5階建ての近代的ビルディングで、ザルネガール公園の西隣り、自治省の向かい、ぼくのいるホテルからは歩いて数分の距離にあった。午前10時に、教育相のアナヒタ・ラテブザド氏に会う予定になっていた。ケシトマンド氏との会見のときは、彼の執務室が広い敷地の中の館にあったので、正門で入構手続きやボデーチェックをすませた後、その館まで警備のアフガン兵が案内した。アナヒタ氏の場合も、日本で暗殺説が流されるくらいだから警備は厳重に違いない、と覚悟していた。

 教育省の玄関には自動小銃をかかえた歩哨が立っており、受付は玄関を入ったすぐの1階ロビーにあるのがみえた。ぼくは、情報文化省発行の記者証を歩哨にみせ、英語で「教育相に会いたい、約束してある」と告げた。当然、玄関を通すまえに、ボデーチェックやカバン検査をするのだろうと思って待っていたら、兵士は、受付を振り返るようにして指差し、“行け”と身振りで示す。玄関からロビー全体が見渡せた。受付のまわりだけでなく、ロビーは、背広姿や民族服姿の男女で混み合っていた。ぼくは2、3人順番を待ってから、受付で歩哨にしたのと同じことをした。するとここでも、記者証をちょっと見ただけで、顎をしゃくるようにして、行ってよろしい、との仕種。隣りでは入館するアフガン人がボデーチェックを受けているのに、あまりにもあっけない。行けと言われても、大臣室がどこか判らない。「大臣室がどこにあるか知りません」と顎をしゃくった男に言うと、もう1人の受付係がでてきて4階の1室につれて行ってくれた。その部屋は、大臣秘書室のようだった。

 ここにも、ターバンを頭に巻いた民族服や背広姿や制服姿の男が10数人順番を待っていた。秘書官らしき中年の男性の電話が終わるのを待って、その人にぼくの来意を告げた。彼は秘書室の奥のドアを開けて続きになった部屋に入って行った。あそこが大臣室だな、と思って彼が締めて行ったドアを立ったまま見ていたら、彼はすぐに出てきて、「ちょっと待っていてくれ」と言う。秘書室のドアの近くのソファーが空いていたので、順番を待っている老人の横に席をとった。その席に坐って、今朝起きてからの行動をメモしようと、手帳に8行書き込んだところで、秘書官が呼びに来た。大臣室に入る前に腕時計をみたら10時10分だった。

 秘書室奥のドアから大臣室に案内された。その部屋は、大臣室というよりも会議室といった感じで30坪くらいの長方形の部屋だった。中央には会議用の長テーブルが矩形に並べてあって、テーブルには2、30脚の椅子が添えてあった。この部屋の左手前の空間に大臣執務用と思われる大机があり、その前に応接セットが据えられていた。大臣の机の上には卓上国旗が飾られ、アタッシェ・ケースが置かれていた。背にあたる壁には、州別に異なる色で塗り分けられたアフガニスタンの地図が貼ってあった。

 こんな風に部屋の観察をしていたら、この部屋のさらに奥の部屋から、アナヒタ教育相が出てきた。8月27日、カブールのエスタクラル高校の集会で彼女の演説を聞いて以来、2度目の出会いだった。彼女は体格がいいし、その歩き方は、威風堂々としていた。挨拶の握手をしたときも、身長、体重、さらには握力までも彼女の方が上だったので、圧倒されそうだった。彼女に勧められてソファーに席を移した。このときには秘書官は案内を終えて大臣室から出て行き、彼女と2人きりになった。

 ケシトマンド氏との会見のときと違って、今回の会見日程は、8月30日にすでに教えられていた。インタビューの日まで必要な準備をするには充分時間があった。そんなわけで今回は多少緊張はしたものの慌てたりはしなかった。彼女は英語、ロシア語、フランス語など数カ国語がペラペラだと聞かされていた。噂にたがわず彼女は流揚な英語で喋った。ぼくは自己紹介をし、日本でのアフガン問題の取り扱いを紹介し、それへの批判を述べた。彼女は“ベリー・ナイス”とか“グッド”とか英語の合いづちのほかに、“ホーッ”とまるで日本語と同じ感心したときに発するような感嘆詞を日本語と同じ意味内容で使った。彼女は人間らしい生活をアフガニスタンにもたらすための活動については情熱をこめて、彼女らの党が犯した錯誤については口惜しそうに、表情豊かに多くのことを率直に語った。4月革命の課題について、教育の課題について、さらには彼女の生いたちから日本人民への挨拶まで。ぼくはこの日の彼女の話をテープにとり、それを英文に起こした後、9月11日にもう1度教育省を訪れた。彼女はぼくのみている眼の前で、その英文のテキストに手を入れ、説明不充分の部分を書き足した。2人のこの仕上げの仕事は約1時間半かかった。以下はその全文である。