3 封建的部族社会とは
前節まででわれわれは、民族自決権とは何であるかおおまかな理解に達した。日本共産党が金科玉条のようにそれを持ちだしてきているのが、かれらの主張を合理化するためだけの「屁理屈」でしかないことはもはや明らかだ。とはいえ、日本共産党に限らず一般の疑惑はアフガニスタン領にソビエト軍が駐留していることにある。だから、「民族自決権」の内容を考察しただけでは「アフガン問題をどう考えるか」との疑問に真に答えたことにならない。この疑問に答えるために前節までの歴史的な視点から、独立を達成していたアフガニスタンでなぜ1978年の4月革命が起こったのか、それはなぜ必要だったのか、ソ連の直接的支援に頼ってまで守らねばならなかったのは何なのかを明らかにする、社会的側面の分析へと視点を移してみよう。
1919年にイギリスの支配を脱して独立したアフガニスタンは1973年まで立憲君主制、その後4月革命が勝利する78年までは共和制の政体をとっていた。独立から革命まで約60年を経ていたが、この間、それぞれの時代の政治体制、社会制度はそれほど全土に浸透しなかった。その理由のひとつは内政の不安定さにあった。
独立後、国王アマヌラー・ハーンは、すでに述べたようにソビエト政権との友好関係を結び国内の改革にとりかかった。教育、行政、社会制度、貿易、工業等に関する改革布告を発し、近代化を計ろうとした。彼は婦人にイスラム的因習であるベールを脱がせ、男女共学を導入し、宗教指導者の権限に制限を加えた。1923年にはアフガニスタンで最初の憲法を制定した。しかし、王の上からの改革が余りにも急進的であったため、1929年には「バッチャー・イ・サカオ(水運びの息子の意味)の乱」がおこって、王は国外へ亡命せざるをえなかった。
1929年、アマヌラーの従兄にあたるナジル・ハーンは、反乱を平定して国王の座につくや先王による諸政策の修正にとりかかった。外交面ではソビエト人顧問を公職から解職し、イギリスとの関係を修復した。内政面では1930年に2院制にもとづく新憲法を制定し、急進的な改革をやめ、それを漸進的なものに変えた。だがこの国王も33年に暗殺されている。
33年に王位を継承したムハマッド・ザヒル・シャーは、比較的長い40年問、国家指導者の地位にいた。彼は王位とともに父王ナジル・シャーの漸進的改革路線を受け継ぎ、1956年からは3次にわたる5カ年計画を実施し、64年には主権在民を謳う新憲法を制定している。憲法は集会・結社の自由を認め、国会選挙を実施するなどの民主的権利も一部に含むものであった。4月革命の指導政党となったアフガニスタン人民民主党は憲法制定の翌年に結成されている。ザヒル・シャー治世の40年は、アフガニスタンに近代的立憲君主制が一定期間定着するかもしれない可能性を持った時期であった。しかし、米・ソ両国からの借款を主とする外国の資金によって近代化を計ろうとする政策は、政策の遂行者が国王=封建領主であるという本質的矛層を背負っていた。低賃金状態の放置、導入される資金に群がる利権屋の発生、高級官僚の汚職、これらの矛盾に手つかずのまま残された旧来の土地制度からくる矛盾がつけ加わっていった。国王の政権は反動性を深めていった。アフガン人民はこのような矛盾が国王の存在とその政策からきていることを見逃さなかった。60年後半から70年前半にかけて、学生運動をはじめとする大衆的な反政府運動が高まっていったのである。
1973年7月、モハマド・ダウド・カーンはシャーの外国訪問中にクーデターを発動し、王制の廃止、共和制の成立を宣言した。ダウドの登場が可能になった背景には、古いアフガニスタンの社会構造を変革し、社会を発展させようとする人民の意思があったのである。ダウドがクーデターの直後まっ先に、「土地改革をはじめとしてわがアフガニスタンに現存するさまざまな旧慣習を廃止し、社会経済体制の大幅な改革をおこなう」と宣言し国民の支持をとりつけようとしたことにも、そのことは現れている。
独立後60年、上からの近代化政策はさしたる成果をあげなかった。そればかりか、農業と遊牧を生業とする伝統的社会制度の広汎な存在のなかに、都市部では資本主義的ないし国家資本主義的社会制度が持ち込まれた。伝統的なアフガン社会の変革をもとめる進歩的な人民の意識と、それが激しくぶつかりあったのだった。
伝統的なアフガン社会とはいうまでもなく、イスラム的封建的部族社会のことであり、その制度、慣習、経済構造、文化のことである。日本に住むわれわれはこのような社会についての知識に乏しい。革命の戦略規定のみならず、政治、社会、文化各部面にかかわる諸問題を考える場合、それは致命的欠陥である。そこで、以下、アフガニスタンの最大多数民族であるパシュトゥーン族の部族社会についてその実態をみておこう。限られた紙幅と筆者の能力では、その全体像をつぶさに明らかにすることには無理がある。したがって、まず初めに「パシュトゥヌワレイ」を素材として部族杜会の規律・機構、次に生産関係の基礎を成す土地所有の形態、最後に社会の発展程度を示す尺度である女性の地位の順で、それらに関する必要最小限のデータを提出してみたい。
さて、農村のすべてが部族社会ではないといっても、それが残存している場はまぎれもなく農村である。アフガニスタンの人口分布が農村71%、都市14.7%、遊牧民14.3%であること(70年代末期)、さらにこれにパキスタン領内のパシュトゥーン族、バルーチ族の存在を加えて考慮すれば、圧倒的多数の国民が未だ部族社会の強い影響の下で生活していると言って過言ではない。
パシュトゥーン族には、小は数千人から大は数十万人に及ぶ数十の部族がある、とする報告(J・スペイン)がある。おのおのの部族は、血縁で結ばれた多くの氏族で構成されており、アフガン民族史のなかで共通の歴史および生活形態を集団として共有している。
部族は、一定の居住地域や遊牧地域を持っている。主なものだけでも、国王を輩出し主にカンダハール地方に住むドゥラーニー族、デュランド・ラインをこえて往来するギルザイ族、デュランド・ラインの内と外にあるいは「国境」にまたがって部族社会を維持しているユースフザイ、モフマンド、アフリーディー、シンワーリー、オラクザイ、バンガシュ、ザイムシュト、ワジール、マフムードの各部族、定住域内で農耕あるいは遊牧に勤しむムハンマドザイ(ガファル・カーンの属する部族)、バンヌーチー族などがある。さらには、部族制が解体し氏族単位の生活を営むパターン人もいる。一口に部族社会といってもその内実はきわめて複雑である。
このような複雑な部族に共通性と統一性を与えているのがイスラム文化である。イスラム教徒である部族社会構成員の生活規範の基礎にあるのは、基本的にはイスラム教の戒律=コーランの諸規定である。パシュトゥーン族の伝統的生活規範は、コーランを下敷きにしながらも独特な口伝のパシュトゥヌワレイ(「パシュトゥーン精神」あるいは「パシュトゥーンの道徳と慣習」の意味)と呼ばれる慣習法によって表現されている。現在のアフガニスタンで進行している事態を、「ソ連の介入(ないし侵略)→カルマルかいらい政権の擁立→それとのパシュトゥーン族などイスラム部族の勇気ある聖戦(ジハード)、復讐(バダル)」と描き出す輩が好んでもちだすのがこれである。「パシュトゥーン人には、聖戦、復讐、勇気、戦闘における名誉、夜襲、自尊心などを定めた戦闘的で厳しい民族の掟がある。これを裏切ったカルマルらが許されるはずがない」等々と、パシュトゥヌワレイも随分と有名になった。ところがそれは、あまりにも我田引水の解釈である。
パシュトゥヌワレイは、未だ国家を形成するにいたらぬ時代のパシュトゥーン族という社会的人間集団における集団運営方法・約束事・心構えなどが集大成されたものである。ここには、一般に言われているように「掟」と意図的な翻訳をして、現代人の理解の埓外にある迷蒙な因習でがんじがらめになった社会と描きだしたくなるような規定もなくはないが、本質的には封建制度の諸法則がパシュトゥーン人の特殊性に合致する形で表現されているだけのものである。
たとえば、「バダル(復讐)」の規定について考えてみよう。
「バダル」は、J・スペイン(『シルクロードの謎の民』の著者)によれば「パシュトゥヌワレイの第1のそして最大の命令」であるとされている。彼によれば個人的損失に復讐する義務は「被害者当人はもちろん、被害者の家族と部族にまで及ぶ、……侮蔑と報復は、個人だけでなく氏族にも及ぶから、流血の闘争は拡大される。……きわめてしばしば、一方または双方の家族が絶滅してしまわないと不和が終結しないことがある」という。「ソ連憎し」の感情に理性を奪われた日本の“おっちょこちょい”どもが、このような「掟」を「アフガン問題」理解のキー・ポイントとばかりに飛びつく。だが、ちょっと待った。ほんのわずかでも冷静に物事を考えてみよう。その一助としてわが国の一昔前の武士社会に想いを巡らせたらどうだろう。「仇うち」なる厳しい「掟」が日本にもあったのではないのか? そこには、J・スペインの叙述と寸分違わぬ現象がみられたのではないのか? 確かにそれは、日本ではいまや歴史物のなかにしか現存しない代物かもしれない。パシュトゥヌワレイのこのような規定を聞きかじると、日本民族は発展したのだ、と言いたくたる軽薄分子が徘徊する根拠もあるのかもしれない(蛇足ながら筆者などには、部族社会でもないのに忠臣蔵など仇うち話がいつも人気を博する現代の日本社会の方がはるかに薄気味悪い)。
「バダル」に戻ろう。「バダル」の元になる紛争の多くは、「ザル・ザン・ザミーン」すなわち「金・女・土地」に集中している、とスペインは言う。なぜか。それは、封建制にあって(および生産手段の私的所有制に基礎を置くあらゆる社会にあって)、「金・女・土地」は封建制の構成要素にかかわる第一義的に重要なものだからである。
「金」とは財産の個人的所有の表現である。「女」とは、男の個人的な問題であると同時に財産の相続が世襲制であるあらゆる社会でつねに社会的問題でもある。「土地」とは、農業・牧畜産業に基礎を置く封建社会にあっては、その所有制、耕作権、入会権等あらゆる制度へのどんなに小さな侵害でも厳しく処罰されるべき行為であることを示しているに他ならない。
本来、部族社会が解体・統一され、いかなる形態であれ国家形態がつくり出されていれば、ここで取り扱われているような紛争の処理と解決は国家権力の手に委ねられる。警察権と司法権である。アフガニスタンにおける過去実在の国家とは、長い間、部族間の力のバランスの上に成立する形だけの中央政府にすぎなかった。中央政府の長=国王は部族を支配するものたち(一般には封建領主)の権利、つまり部族民を収奪する権利を認める代償として国王の名を名乗れたのである。部族制の解体なしに実現できない強力なる中央集権国家を創ろうとした歴代の国王が跪かざるを得なかった理由がここにある。
「バダル」が法であるかぎり、紛争の調停を定める条項も必要となる。それが「ルーガ(講和)」である。力試しに敗れた側が自分の妻のベールをとり、夫婦ともども頭上にコーランをかざして相手の前に進み出、羊を提供し相手の許しを乞うという儀式である。つまり、示談である。なんと遊牧民的解決法であることか! しかし普通は、近隣の族長か中央政府の政務官など第3者が間に入り、調停が行なわれ和解にいたる。殺人事件などの場合も、人命賠償金が支払われ、当事者全員の名誉を傷つけぬ方法で問題が解決される。パシュトゥヌワレイが、アフガニスタンにおける明文化されていない慣習法であることが「バダル」の規定ひとつとっても明らかとなろう。
キャームッディーン・カーディム著『パシュトゥヌワレイ』(カブール、1953年)という書物から勝藤猛(前掲J・スペイン著作の訳者)が紹介しているパシュトゥヌワレイの主要な36の条項を読むと右の結論がより一層はっきりする。そこには、軍事、行政、外交、警察、戦闘方法、婦人の役割、契約の遵守、紛争解決の方法、議会、倫理、結婚、信仰、旅行者の安全保証、教育、祭事と部族社会を維持・運営していくうえで必須の事項が網羅してある。それらは、体系化されていず、規定に重複があり、前近代的な内容を持つものだが、粗野とか野蛮とかいった代物ではない。血縁者への肉親的愛情や同一部族民としての同族的連帯感を基盤としたいたわりや平等(とくに挨拶や日常生活での)の習慣は、いまもなお、アフガニスタンを訪れる旅行者を驚かすほど細やかなものだ。
とはいえ、部族社会は土地の領有を物質的根拠とした搾取社会である。部族の最小の生活単位である村には、マリク(アラビア語で「王」の意味)と呼ばれる氏族長と労働せず貢物で生活するムラーがおり、日常はこの両者が村の政治の指導権を持っている。マリクは、特定の家系に与えられた世襲の地位で、世襲権を持つ家族内の最も有能で信奉される男が継ぐ。長子相続制ではない。ムラーには、修業をつんだ者なら誰にでもなれ、自分の生地以外の村で聖職につく。
さまざまなパシュトゥヌワレイのなかでも、われわれの関心を惹くのはこのような村で開かれる「ジルガ」に関するものである。「ジルガ」とは、議会とか集会とかを意味するパシュトゥー語である。
「ジルガ」とは、マリクとムラーの支配を前提とした、村民全員(男のみ)の「寄り合い」である。同時にそれは、上下にかかわらず部族社会のそれぞれの段階単位で開かれ、それぞれの単位の最高機関である。
村の「ジルガ」には部族内のすべての成人男子が参加し、全員一致で意思決定を行なう。部族によっては習慣的に参加資格が定められているところもある。もめ事の審議をはじめ生活上必要なあらゆる事項が話し合われる。契約違反、土地の境界線の問題、カレーズや灌概用水の分水問題、土地や牧地の要求、慣習に反する行動への対策、結婚や相続の紛争等々。より上級のジルガでは、外交の範疇にはいる事項を討議する場合もあるし、国王の選出も全部族の長が集うローヤ・ジルガ(最高議会)で行なわれる。
パシュトゥーン人の「掟」の概略は以上のようなものである。それは封建的生産関係を下部構造とする制度でありイデオロギーである。パシュトゥーン族をはじめアフガニスタンの部族社会をことさらエキセントリックに描きだそうとする者たちの意に反して「掟」はそれほど強力で固定的なものではない。
部族民といえども「掟」のために生きているのでなく、部族社会を維持していく上でパシュトゥヌワレイが必要だからそれを守っているのである。部族社会は、必然的に崩壊していく運命にある。それは現にアフガニスタンでもパキスタン領内でも徐々にではあっても確実に進行している。パキスタン領からアフガニスタンヘ送り込まれているアフガン・ゲリラと呼ばれる、その実、いやしい兵匪にすぎない部族民は、過去に縛られて利用されている存在である。生活感覚の鋭いかれらが現状に代わる別の生活基盤を見出したとき、「バダル」をやめて「ルーガ」に走るかもしれない可能性は大いにあるのだ。
つぎに、部族社会の下部構造をなす土地問題に移ろう。アフガニスタンの経済は農業と遊牧、それを基盤にした商業・貿易がほとんどを占めている。1979年のGNP(国民総生産)に占める農業の比率は約59%(工業22%)である。人口比率と比べてみた場合、農業生産性がいかに低いかが如実にみてとれる。
この国の土地所有制度は、血縁的封建的社会、および乾燥地帯という自然条件の2要素からくる特徴を兼ね備えている。土地の所有状況はどうか。革命前、国土面積の12%、780万ヘクタールが耕作地で私有地は6.9%、450万ヘクタールだった。一かけらでも土地を所有している人間は120万人だった。このうちザミンダールと呼ばれる大地主(6ヘクタール以上の耕地の所有者)が10万9000人おり、土地所有者の9%にあたる。9%の人間が全耕地の実に43%を所有していたのである。土地所有者といっても2ヘクタール以下の所有者が全土地所有者の67%と過半数を占めている。以上の数字が土地所有者のみに関する数字であることに注意してほしい1000万人近い全農村人口を対象とすれば耕地の寡占率はもっとはね上がるのである。
アフガニスタンの土地問題は土地の所有形態だけにあるのではない。いくら広大な土地を持っていてもそこに水がなくては1文の価値もない。水あってこその土地なのである。アフガニスタンのような乾燥地帯では、水も人工的に入手するしかない。川から用水路で引いてくるか、川がなければカレーズを掘るかしかない。ところが、これらの治水工事を行なうには大変な資力が必要だ。部族民が共同で拓いた灌瀧施設は一般にその部族の共有財産であるが、カレーズは個人ないし数人のグループの資金で掘られたものも多い。ここに地主とは別に水主という存在が発生する。たいてい、水主は同時に地主だが、地主の圧倒的多数は水主ではない。したがって、地代を払う必要のない多くの自作農に、水代を払う義務が発生する。しかしそれはまだまだ恵まれた農民だ。ほとんどの農民は小作であり、マズドゥールと呼ばれる賃働きであり、大地主の子飼いとなっている農奴的存在である。
小作農には、厳しい自然のほかに高い小作料が襲いかかる。カブールから車で1時間と少しほどのところにあるホダイダード・ヘイル(村人は何代かたどるとたいていが親戚である)という村の1967年の調査結果によれば、小作料(地主と小作の分益率)は、(1)地主が土地を貸しあとの一切を小作が持つ場合は1対1、(2)地主が土地を貸しさらに犁牛および農具・種子を一部援助する場合は2対1、(3)地主が土地と犁牛および農具を貸し小作は労働力のみを受け持つ場合は4対1(一昔前は6対1)と報告されている。他の村の水準((1)の場合でさえ灌概の形態では小作の取り分25%というひどい小作料も珍しくない)と比べるとホダイダード・ヘイルでは小作側に有利なようにかなり改善されている。とはいえ、つい最近まで、アフガニスタンの小作料は日本の江戸時代以前の水準にあったと言ってよい。
高い小作料に加えて、イスラム教では禁じられているはずの高利貸しが、農民に襲いかかる。農作業のはじめには種子がいる。農民は、種子を購入するための資金を革命前は高利貸しから貸りるよりなかったのである。革命前には、資本主義的生産方法の導入の結果、食えなくなった農民が、農村をすてて都市へ流出するという現象も進行中であった。
最後の国王(シャー)を打倒して共和制を宣言したダウド(彼はその独裁ぶりを批判してダウド・シャーと呼ばるようになった)が、まっ先に土地改革を行なうと国民に約束せざるをえなかったのは、狭い血縁社会にからみついた封建的土地所有制を矛盾と感ずるまでアフガン人民の意識が高まっていたからである。
4月革命後、新しい政府が第1の課題として取り組んだのも、土地改革だったのは言うまでもない。1978年11月30日に発せられた土地に関する布告第8号は、灌漑施設の共有を宣言し、6ヘク夕ール(30ジェリブ)以上の耕地の所有を禁じた。布告は告げる―30ジェリブの土地があれば、1家族は十分生活していける、と。
最後に、部族社会における女性の地位をみてみよう。女性がどのような社会的扱いを受けているかは、その社会の発展度を示すひとつのバロメーターだからである。
一言で言って、部族社会における女性は、男すなわち父、夫、兄、息子の私有財産である。女性そのものが私有財産であるだけでなく、私有財産を産み、育て、私有財産を代々維持していくための私有財産である(これはもちろん、社会的機能においてそういう地位に女性が置かれているということであって、女性が物のようにしか生きていないということではない)。
「ジルガ」に参加する資格が女性にないことはすでに述べた。それに限らず、女性が部族社会の公的場に登場するチャンスはほとんどない。
成人女性がチャドルを被り、全身を布で隠して親族以外に顔を見せないのはコーランの教えによるものである。女性は10歳くらいまでは男子に混じって普通に遊んだり勉強したりできるが、それから先は隔離されてしまう。地主などの他家の雑役婦をしているような最下層の女性や遊牧民はチャドルを使わない。女性がチャドルを被る習慣は、女性を家庭内にとじこめ、家事労働と育児以外の社会的活動に参加させない社会的システムとなる。農村では家事に加えて農作業が双肩にのしかかる。
女性隔離の弊害は、まず初等教育に現れる。男女共学制が伝統社会では否定されるし、男子生徒を教えるのさえ教師(村ではムラーがこれに当たっていた)数が絶対的に少ない。1964年のユネスコの調査では、首都カブールの小学校就学率が30%(男43%、女16%)、地方都市パルワンでは10%(男16%、女3%)であると報告されている。全体に就学率が低いが、女子が著しく低い。
女性が社会的に人間として扱われていないことが端的に示されているのは結婚制度である。イスラム社会では、平等に愛することができるなら、4人まで妻を持てる。女性は12、3歳になると隔離されるから、結婚は近親者か職業的仲介人がとり決める。花嫁花婿がお互いに面会できるのは結婚式当日が初めてである。
結婚したい男は、花嫁の実家に花嫁代償を支払わねばならない。先に紹介したホダイダード・ヘイル村では花嫁1人の代金は約1万〜2万アフガニであった。労働者の日給が当時約25アフガニ(約125円)であったから、これは目をむくほどの大金である。花嫁代償があまりにも高いので、結婚したくても金がない男は、娘の両親と交渉して4〜5年娘の家で働き、しかる後、娘を妻にもらうことができる。こういう交渉でも、まとまればまだ幸せと言うべきであろう。女性が解放されていなければ男も解放されえないことの好個の見本がここにもある。
さらにもうひとつ、女性が物と同じように扱われている例に、殺人事件の示談賠償がある。ホダイダード・ヘイル村では、調査時点より20〜30年まえまで、殺人の賠償は少女4人プラス1万2000アフガニが相場だったと言う。
これほど極端な例は最近では少ないのだろうが(売買婚や賠償に女性を使う因習はいまでは法で禁じられている)、私がカブールで見聞した範囲でも、女性が置かれた差別的な状態にはしょっ中お目にかかれた。その中でも、カブールで、友人宅に夕食に招かれたときの経験は忘れられない。そこには、私のほかに3人の女性をつれた30歳くらいの青年が来ていた。彼はアミン指導部の時代に1年近くプリチャリヒ監獄に入れられていた経験の持ち主で、私と話す間、始終両手でイスラム教の数珠=タスペを弄んでいた。彼は英語ができたので投獄中のことやアフガニスタンの現状を詳しく聞くことができた。そのうち彼は、質問ばかりしていた私に、逆に質問してきた。彼と一緒に来ている3人の女性の関係をあてろ、というのだ、私は、彼がなぜ、突然そのような謎をかけるのか理解できなか った。歳格好はどの女性も20代後半から30代後半のように見えた。私は、3人があまり似ていなかったけれども、考えた末に、「姉妹か?」と答えてみた。彼−サセックス氏は3人の女性を指して正解を述べた。「これが自分の妻、こちらがその妹、もう1人はその母である」、と。私にはとても信じられなかった。冗談だろう、と彼の言葉を打ち消そうとした私に、彼は説明を始めた。「母は13歳で結婚をした。そしてすぐに2人の娘を産んだ。これがアフガニスタンだ」。母としてのアフガン女性はこれまで、若年結婚、多産多死の状態に放置されていた。男女平均寿命40数歳のこの国では女性の方が短いという。
アフガニスタンにおける女性解放の試みは王制の時代から始められてはいた。しかし、それを徹底的に遂行できるのは社会主義者に指導されている現在の民族解放民主主義革命だけである。この国の人民はいま、アナヒタ・ラテブザドをはじめすぐれた女性革命家を多数生みだしている。一方、アフガン・ゲリラと呼ばれる兵匪のキャンプでは、女性隔離が厳然と行なわれており、女子への教育は行なわれていない。