インターネットへの没入-4

――村井純さんの著書と土井利忠さんのエッセー――


三茶 奇一(1996年11月18日)

 前回引用した『インターネット「宣言」』を、村井先生は次のような書き出しで始めておられる。

 「世紀末の世界をインターネットという妖怪が徘徊している」
 と「宣言」したら、かのマルクスは怒るであろうか。これは『共産党宣言』の冒頭に出てくるあまりに有名な1節、「ヨーロッパを妖怪が徘徊している――共産主義という妖怪が」のパロディであることに、賢明な読者はすぐ察しがついたことであろう。1848年にマルクスが宣言したその妖怪は、20世紀社会の一時期、人類史上の輝ける希望とまでいわれたが、ベルリンの崩壊そしてソ連邦の解体という事件でひとつの終末を迎えた。必ずしも共産主義は人類の希望ではなかったようである。
 では、インターネットについてはどうであろうか?

   もうひとつ、私の好きなエッセー全文を無断転載する。

 ソニー取締役・中央研究所副所長の土井利忠氏が『読売新聞』96年2月28日号の「サイバー・トーク」というコラムで、『「カウンター・カルチャー」の思想』と題して書かれたものである。

 今話題のインターネットは、「カウンター・カルチャー」の精神に沿って発展してきました。
 我々はふだんはなんの疑問も感じませんが、この社会は人間のエゴ(我欲)の追求を大きな推進エネルギーにしています。
 それに対して、「カウンター・カルチャー」は、「愛・調和・互恵」が大切だという思想です。
 ところが、古今東西エゴを否定した社会や組織運営はことごとく失敗しています。
 その中で、インターネットはごく最近まで「カウンター・カルチャー」の精神を色濃く持ち、珍しく成功発展してきたコミュニティーでした。
 ストールマン博士という天才的なプログラマーがいて、ほとんどのインターネット・エンジニアは彼のソフトを日常的に使っています。ソフトはコピーライトといって著作権を主張しますが、彼は「ソフトは人類が共有すべき創作物であり、だれでもタダで使えるべきだ」と主張し、“コピーレフトの権利”と名付けています。インターネットは基本的にコピーレフトのカルチャーなのです。
 ところが、ここ3年ほどで急発展したため、かつて肩を寄せ合って、ひそひそと「愛・調和・互恵」を育んでいた人たちは、今やかすんでしまい、弱肉強食の競争社会が出現しつつあります。
 最近、アップルコンピュータ社の買収合戦の記事が新聞をにぎわしていましたが、アップルもまさに「カウンター・カルチャー」の申し子だったのです。
 創立者のスティーブ・ウォズニアックはインドに行ってめい想を習ったりしています。メーンフレームのように上から管理する社会や組織のあり方に反発して、個人を重視したコンピュータを打ち出したのがそもそもの始まりです。
 一時は圧倒的な支持を得ましたが、なんとなくエゴを主体とした競争社会の中にのみ込まれていった感を免れません。やはり、エゴを基本にしたシステム以外は成り立たない、というのが人類の性(さが)なのでしょうか。一抹の寂しさを感じるのは、おそらく私だけではないでしょう。

 土井氏が述べておられる「愛・調和・互恵」という思想は、マルクスだけでなく、弱肉強食の人間社会の悲惨を克服しようと考える人にとっては洋の東西、時代を超えて、等しく共通の理想・希望であった、と言って良い。

 「一抹の寂しさを感じる」のは土井氏だけではない。「崩壊」し、「解体」し、「のみ込まれ」たように見えても、『「愛・調和・互恵」が大切だという思想』が消えることはない。健康な精神を失わない人は、何度挫けても、「カウンター・カルチャー」をやるだろう。

 村井先生は、先の引用のすぐ後に、次のように続けておられる。

 コンピュータネットワークを研究し、実際にインターネットを手がけてきたもののひとりとして感想をいえば、21世紀はインターネットの時代と呼んでいいと確信している。
 (中略)
 インターネットという「妖怪」は、かつての産業革命の牽引車であった鉄道や自動車、あるいは、電話をはるかに上回る猛スピードで膨張し、今日も世界を徘徊しているのである。

 村井先生の未来への明るい見通しは力強い確信に裏づけられている。我欲だけでインターネットコミュニティーに入ってくる人もいれば、「一抹の寂しさを感じ」ながら、そうであってはならないと思ってこのコミュニティーに参加してくる人もいる。

 9年前、アップルコンピュータに限りない可能性と喜びを感じて、パソコンDTPの世界に入った私は、いままた、この後者の参入者のひとりとして、インターネットコミュニティーにますます没入していこうと決意した。