インターネットとかかわって、最初にお目にかかったソフトは、MacTCPやConfigPPPなど、僕のパソコンをインターネットに接続するためのソフトだった。これらは、システムに標準装備されているか、フリーウエアだった。Macユーザーのためのインターネット・ハウツー本の付録としてフロッピーで付いてきた。
次にさわって、びっくりしたのが、なんと言ってもMosic。これでWorld Wide Web上のホームページを次々と見て回る快感はいままでに感じたことがなかった。世界中、と言ってもアメリカ合衆国が圧倒的なのだが、個人から会社、大統領府や議会、政府各省庁などのデータを自由に見て回れた。
同じようなソフトにGopherというのがあった。データベースにアクセスするソフトだった。さらに、NewsWatcherというソフトがあって、インターネット上に存在する無数のニュースグループにアクセスでき、そこに投稿された世界中の人びとのメッセージを読むことができた。
インターネットを始めた最初の1、2カ月は、とにかくハウツーものの書籍や雑誌を乱読した。仕入れた情報でいろんなWebサイトを訪れたり、ホームページ制作のまねごとなどをやってみた。パソコン通信とはひと味違うインターネット電子メールの味も覚えた。オンライン、オフラインで友人や若い学生たちと意見交換をした。結果、本腰を入れてインターネットを勉強したくなった。
いつものように本屋を覗くと、日本におけるインターネットの開祖と目される村井純さんの著作を見つけた。『インターネット「宣言」』(講談社発行、1100円)だった。
村井先生は慶応大学の出身だが、僕も在籍したことのある東京工業大学でも教鞭をとっていたことがあり、後輩の学生にその噂を聞いたこともあったので、一も二もなく買い求めてしまった。
読み始めると面白く、仕事など手に付かず、一日で読んでしまった。
この本は、インターネットの現状、歴史、未来を概説しているのだが、学者が書く一般の学術書とはまったく趣を異にした、とても実践的な本であった。書名に違わず、文字どおり「インターネット宣言」だった。
特に面白かったのは、第2章、歴史に当たる「インターネットの変遷」について書かれたパートだった。
コンピュータがようやくパソコンになろうとしていた1980年前後、村井先生は当時、慶応大学の学生だった。村井さんたちは、学内のコンピュータをネットワークでつなぎまくる。「キャンパスのマンホールの中に潜り込み、下水道にそって回線を引いて、2つの研究室をつないだ」。いろんな研究室のコンピュータをつぎつぎとつなぎ、UNIXをたち上げる活躍の様子が、この章には鮮やかに描かれている。
コンピュータとコンピュータを接続してUNIXを稼働させることに情熱を燃やす村井さんたちは、慶応大学だけにとどまらず、全国各地の大学や研究所に出かけてつなぎまくる。この時期を村井さんは次のように語る。「実は慶応にいたときに、東工大にUNIXの起ち上げ(インストール)に行ったことがあった。ネットワークのインストールでは九州大学にも、第5世代コンピュータ研究所にも行った。必要と思ってもノウハウがないのでできないといわれる。だから助けに行く。ネットワークの伝道師、悪くいうと「お助けマン」で、そんなことをしていてはだめだといわれたりもした。でも、求められればどこへでも行った時代だった。UNIXで結ばれたコンピュータ環境の伝播、それは若い私の生き甲斐だったといってもいい。」
旧来の学者の眼からみると、学問的になんの業績にもならない活動に見えたのだろう。
1984年、慶応大学の博士課程を修了した村井先生は、東京工業大学の助手に採用される。学生から先生になった村井さんの「生き甲斐」はここでもますます面目躍如だ。東工大では、モデムを使った電話回線接続(今のダイアルアップ接続の原型)を実現した。NTTが民営化される前、違法行為すれすれ(実際は違法行為?)で慶応大学、東工大、東大の3校を電話回線でつないでしまったのである。これが日本におけるインターネット第1号になるJUNET(Japan University Network)だったという。
日本におけるインターネット環境は、このような人びとの献身的な努力によって開拓されてきた。ただつなぐだけではない。もともとが英語システムであるUNIXで日本語を使えるようにするため、徹夜で文字キャラクターを開発した学生がいた。ネットワークを運営・利用するための数々のソフトウエアを無償で(そんなことも意識しないで)、必要に迫られて多くの学生や研究者たちが開発した。「お宅」(アメリカではハッカー)と呼ばれるような若者たちが「役に立つ」ソフトを次々と生み出した。(村井先生にも「お宅教授」のあだ名がついたと聞いたことがある。)日本でも、アメリカでも。
JUNETからWIDE(Widely Integrated Distributed Environment)プロジェクトへ、そして1992年暮れのインターネット商用サービスの開始、1994年の「インターネット元年」までは、一瀉千里の過程だった。
僕たちがインターネットの便利さと素晴らしさを満喫できるのは、このような情熱と努力があったからなのだ。「タダ」や「共有意識」や「公開性」などに驚いてきた僕は、インターネットの世界、UNIXの世界の文化が実在の、世界中の、無数の人びとの努力と情熱と汗の結晶であったのだということを教えられた。僕のインターネットへの没入は決定的となった。
(つづく)