阪神大震災
 ――そのとき、世田谷の
     青年たちは行動を始めた


 

関西で大地震が発生してから3カ月が過ぎようとしています。
この大震災は、多くの人びとに、耐え難い不幸をもたらした一方で、国境を越えて支えあう人びとの明るい姿をも見せてくれました。今号では、身近に発見した、そのようなさまざまなボランティア活動のひとつをご紹介いたします。

日頃からボランティア活動が

高級住宅街と思われている東京都世田谷区駒沢の一角に、昔ながらの原っぱがあります。2、30年前には恐らく日本国中どこにでもあったような原っぱ。ここは今でも、夏は雑草が生い茂り、冬は枯れ草の絨毯。壊れた自動車や自転車が放置され、粗大ゴミにしか見えないようなガラクタが転がっており、板切れで小屋が作ってあったりします。この一帯を「世田谷の下町」と呼ぶ人もいますが、まったくその通りだな、と納得してしまうような一角です。

この原っぱでは、子供たちが、落ちると大人でも這いあがるのが難しそうな大きな穴を掘り、「落ちたら死ぬど」などと看板を立てています。覗くと暗い底には滲みだした水が溜まり、ほとんど井戸です。誰が作ったのか、滑車のロープウェイや舞台まであります。さらには、石を積んだかまどもあり、しょっちゅう、焚き火や焼き芋などをしている子供たちの姿をみかけます。自分の子供が「遊びに行く」というと、思わず「やめろ」と言いたくなるほど危なっかしい雰囲気を持った遊び場です。

ブンチャは神戸に行った

ここは、地域の親とボランティアの青年たちが、区の援助を取りつけながら自主的に運営している「プレイパーク」なのです。世田谷にはこのようなプレイパークが3カ所(駒沢、世田谷、羽根木)にあります。
私の2人の娘は、原っぱが大好きで、特に小学校に上がる前は、プレーリーダーのお兄ちゃん、お姉ちゃんに毎日のようにかわいがってもらいました。ある日、その小学1年生の下の娘が、「ブンチャ(ボランティアのお兄さんのあだな:本名・須永力さん)は神戸に行ったよ」と教えてくれました。そして、2月に入ってから、手書きの原っぱニュースをたびたび持ってきてくれるようになりました。

普段から、お世話になっている原っぱのブンチャたちにお礼を兼ねて話を聞きに行こうと思っていた私が、原っぱに足を運んだのは2月も後半になってからでした。

その日は、泥で顔を真っ黒(地黒かもしれない?)にしたヤッコ(渋沢安子さん)が子供たちと遊んでいました。

「ブンチャは帰ってきてないの?」と聞くと
「また神戸に行ったんです」との答え。

聞くと、他のプレーパークのリーダーたちと交代で何回も現地を訪れているとのこと。ヤッコも行って、帰ってきたばかりだと、現地の生々しい話をしてくれました。

プレーリーダーたちが、神戸に行こうと思い立ったきっかけになったのは、遊びに来る子供たちが、発した「まいにちまいにち、地震のニュースばっかりでつまんない」という言葉だったそうです。「ナンカ変だ! と思ったプレーリーダーたちは臨時ミーティングを開き、自分たちには何が、どのようにできるか話し合ったのだそうです。

「ナンカ変だと思ったけど、何もやらないオレたちも、そう言った子供たちと変わらないってことだよなぁ」
「休暇をとってでも行っちゃおうかなと思ってたんだ」
「思いつきや感傷ではだめ。なんのためのボランティアなのか?」
「まず情報を集めよう! 民間ボランティアの受け入れ体制はどうなっているのか……」

こうして彼らは、世田谷ボランティア協会や日本青年奉仕協会を通じて大阪ボランティア協会と情報交換を重ねた結果、曹洞宗国際ボランティア会の活動を知り、その救援活動に参加しようと! ということになったのだそうです。

ブンチャこと須永力さんは、プレーパークの会が発行を始めた「大震災ニュース第1号」に最初の救援活動について次のように書いています。

神戸でなにをしたのか?

<1月25日昼すぎ、プレーパーク号で東京発。同日深夜、神戸市役所着。中国道を通って行くはずが、余震のために通行止めとなり、13時間かかった。しかし一般道を通ったおかげで被害の様子がよくわかった。役所前のナナメになったビルを避けて仮眠をとり、翌26日午前中、SVA(曹洞宗国際ボランティア会)の八木沢さんと共に活動の拠点となる兵庫区の八王寺に入る。その日はお寺内の片付け(八王寺も被災地のまっただ中にあり、メチャクチャ)を手伝ったりし、翌27日から本格的な活動を開始した。

27日と28日は長田区の二葉小学校に行く。校内に550人、校庭に30人が避難し、学区内の老人いこいの家に48人、保育所に250人、そして自宅避難の人が2910人、合計3788人。そこで救援物資の受付、整理、配給などをした。

29日から31日までの3日間、本部要員としてさまざまな避難地を調査してまわった。調査をしながら、遊び場づくりに適した場所も探していた。というのも、当初、自分たちのテント生活を予想していたし、不用になった場合には避難している子供たちと楽しもうということで、ティピ(アメリカインディアンのとんがりテント)を建てるための道具を東京から運び込んでいた。ところがわれわれは、禅堂に泊まれることになったし、各避難地をまわり何人かの子供たちを見ているうちに、「これは本当に遊び場をつくらねば」と心に決めたからである。東京を出るときに、他のプレーリーダーたちの提案で、ノコギリ、カナヅチ、スコップ、クギなどをプレーパーク号に積んであった。これはもう、ティピを建て、即席プレーパークをつくり、子どもたちを笑わしてやるっきゃない。そう言えば、ロープや滑車も持たしてくれたっけ。
で、場所は長田区南駒栄公園に勝手に決定。勝手に遊び場をつくり始めた。

南駒栄公園を選んだのは、
(1) 場所が空いていた
(2) 子どもが多く、「マーケット」に親と共に来る子も多い
(3) 日本人、ベトナム人、在日韓国人などが一緒にいるが、となりのテントにどんな人がいるのか知らないほどバラバラであることなどである。また、このあたりにも部落差別が残っているそうだ。遊び場をつくることでせめて子どもたちの気持ちの中だけでも国籍や、くだらん差別を無くしてつながって欲しいと思った。ちょうど、時を同じくして、ボランティアと避難している人とが協力して「南駒栄自治会」を発足しようとしていた。遊び場を子どものたまり場として「お湯プロジェクト」を大人のたまり場(コーヒー、紅茶サービスを常時している)として、とりあえず、みんなが腹を割れれば最高という思いがあった。私と大越が帰る頃、SVAが「子どもプロジェクト」と題して、遊び場づくりを多くの避難所に拡げることになり、プレーパークが中心となり、他のボランティアと協力して進めていくことになった。
現在、渋沢と鎌上が現地に入っている。>

同じくブンチャは、「ボランティア3月号」で、長田区につくったプレーパークの状況を次のように報告しています。

<神戸市長田区の南駒栄公園。200人がテントの避難生活を送っている。その内、40人が子どもたちだ。そこに即席プレーパークをつくった。テーブルと長イスをつくり、インディアンのティピテントを建て、工作道具を置き、滑車ロープを懸け、紙芝居や人形劇を上演した。毎日少しづつ、遊びに来る子どもの数は増え、常連と言える子どももできた。彼らは、世田谷の子どもたちと同じくらい、本当に元気に遊ぶ。当初、ノコギリやナイフや滑車ロープに危険だという声があるだろうと予想していた。しかし、結果はまったく逆だった。遊ぶ子どもたちをニコニコと見ている顔が多かった。工作を教えたり、救援物資の中からノートやエンピツを届けてくれる人もいた。ある子の母親から話を聞いた。
「あの子は地震で父親を亡くし、今でも夜は怖くて良く眠らない。」
その子も含めた3人の子どもと遊び場のテントに泊まろうということになった。知り合って数日しか経っていない人間に子どもを預けることを親は快く許してくれた。10時過ぎまで3人は大騒ぎしていた。やがて静かになり「やっと」眠った。川の字になって、3人ともぐっすり眠っていた。>

4月になっても、彼らは交代で現地に出かけている。

日に日に暖かくなってくる「駒沢原っぱ」では、きょうも、ボランティアの青年たちが子どもたちを屈託なく遊ばせている。彼ら彼女らのすがすがしい顔を見ていると、被災地にも子どもたちが自由に遊べる「原っぱ」がきっと戻ってくるだろう、と私まで少し嬉しい気持ちになってくる。

野口壽一記


世田谷区の原っぱについてより詳しく知りたい方は「建築ジャーナル」1989年11月号を参照。また、生活の便利さと引き換えに失ってきた良さを取り戻そうとする、このような運動のバックボーンに興味のある方は、「子供の声 はずむまち 世界の遊び場ガイド」(発行・ぎょうせい。2,500円)をご覧ください。

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